昭和46年3月15日夜の御理解 入力者 大坪謙一
えー真で信心通じることはないとか真心一つで、真とか真心とかというものは、神様に 通ずる。またそれは天にも通ずると、姿勢というのに繋がっておったら。
んーけれどもその真をやはり追求した上で追求して行く事が信心なんですがね。
普通例えばこの人ばかりは真心でしても、真でしても全然受けつけない。
いやかえって反対に取っていくような人がありましょうが。こちらが親切にしよっても、もっと真心でしようと思うても、かえってそれをなんかつむじ曲がりな方に頂いて、 かえって反対に(?)人がありますね。
えーそういう人はあのー、(?)さんのところの主人の今日はちょうどおたち日でしたから(?)御霊様にちょっとご挨拶をさせて頂いたわけですけれどもね。そういう意味でね例えばあのー遺族の者があの真心で、んー例えば事を成すというか、またはあのーお供え一つでも、おーお水一杯でも、お茶一杯でも、もう真心を込めてするならば、それを素直に受けられる御霊というところまで精進がでけておってですね。
んーそれを私が親切にしておっても、親切ごかしにしておるとかね、いくら真心でしても向こうには通じないでかえって反対にそれを取られるといったような(?)な、(?) の中にもありますように、それでもねやはり真心というものはそれでもやはり貫かせて頂くもんだんです。
貫かせて頂けばそれは必ず通うというわけですね。真でえー神様へ向こうて通じないはずいはない。変わる真で変わらん時にゃまぁだ真がかけておると悟れとさえおっしゃるくらいですから。
いよいよ真を追求して行く事が信心なんですけれども、そういう素晴らしいー意味わいにおいての真ではなくても「あっ今日はあの人の経ち日であった」と、例えば好きな物一つも供えればそれを素直に受けられるだけの御霊様であると言うことですね。
私達でもやはり、こりゃ人間でもそうです。その真心とか親切とかというものはです。 素直に受けれれる私達にならなければおかげを受けられんのですね。どうぞ・・・。